2011年7月1日金曜日

いつまでもここを彷徨うな

6月17日23時30分に家を出発。
ETCの土日祝1000円を利用するためだ。
20年前、秋田まで行ったように一気には行けない。
仮眠を取りながら現地に到着。
しかし、目を覚ませる光景にいきなり出迎えられる。
高速道路を挟んで全く違う光景なのだ!
海側の田んぼ(…だっただろうと思われる。遠くに松原が見える)には、大きな材木や車が転がったり埋まっていたりして荒涼とした景色が広がっている。
言葉を詰まらせる…。



頭はボーっとしていたが、先ず近所のリペアショップ【柾目ウッドメーカー】の清田さんから預かってきたギターを世話役の先生に渡す。
彼も家を流され、ギターもシンセサイザーも失い、何でもいいから楽器が欲しいと聞いていた。
清田氏にその事を話すともう既に被災した人たちに送るギターを何本か用意していたのだ!
ええとこあるやん【柾目ウッドメーカー】
クラシックギター、フォークギター、ピック、弦、チューニングメーターを渡すと、とても喜んでくださった。
この体育館には150人ばかりが暮らしているが、周りに集まってくださったのは、30人ばかり…。
あとの人たちは、自分のスペースに寝転がったままいらっしゃる。
皆さん、一生懸命聴いて下さるが、とても心が疲れているのがわかる…一曲一曲、気持ちを引き上げながらの演奏だった。
それでも最後は、館内のあちこちから大きな拍手を頂いた。

記念に館内で写真を撮ろうとしたが、断られたが(プライバシーが無い所だけに皆さんプライバシーを必死で守っている…迂闊だった)数人の方が館の外に出て来て一緒に写真を撮って下さった。







終わって、職員室で先生達と話をする。
被害のあった所とそうでない所の差が大きい事を改めて知らされる。
話は尽きず、外にでると夕日が射していた。
















さて、どこに行くかも決めていなかったので、近くの道の駅へ。
「上品の郷」で(「じょうぼん」と読む)風呂に入りコンビニでビールやつまみを買って車内で打上げ。
聞くと、駐車場で泊まっていいとのこと。
爆睡…

朝起きると、周りにたくさんの車が泊まっていることに気づく。
話を聞くと、旅の人、ボランティアの人と、そして数台は避難所生活が嫌な人や、合わない人がずっとここで車上生活をしているのだそうだ。


19日…コンビニ朝食をとり、先ずは、石巻駅の方を目指す。
繁華街は全くどこの地方都市と変わりなく、牛丼屋にハンバーガー、ユニ●などのチェーン店が営業をしてどこに被害があったのか分からない、しかし、港に近づくと波に押し流された家やビルが突然現れる。
漁港の近くはもっと悲惨だ。
前日、先生に聞いていたがこれほどとは思わなかった。
まだ片付いていない倒壊した家屋から立ち込める臭いが凄いのだ。
倉庫や加工工場にあった魚が、そこいらの物と混じって腐っているのだ。
逃げるように、牡鹿半島に向かう。






海は穏やかで、はるかに望む市街地は一見何もなかったように見えるが、閉鎖された観光スポットにはもう雑草が覆いかぶさっている。













暫く山道をあがり、下っていくと入り江があり漁村がある。
あとで分かったが、この半島の集落はそんな風に点在しているようだ。












漁村から少し離れた山道に小さな手書きの看板を発見。

矢印に沿って細い道を上がると小さな集会場。
お婆さんが一人、留守番をしていた。
「チーム・サケ」のはるかさんに教えてもらって柔軟材をもってきた事を伝えると、
「ああそれそれ!洗濯してもなんだか違うと思っていたの!ありがとう、いただきます。さ、どうぞどうぞ上がって!」
と、お茶を勧められる。
本当は、避難所の人からボランティアは何も貰ってはいけないと言うルールがあるそうなのだが、僕達は正式にボランティアを名乗っているわけでも無いし、お婆さんはとても話がしたそうだったので、上がってお茶を頂いた。
揺れがとても長く大きかったので、すぐにこの集会場目指して上がろうとした時、その日はとても寒くて、隣の奥さんが何か上に着るものを取りに帰ろうと誘ったが「そんなのなんとかなる!」と引っ張って上に上がったのがよかったそうです。
別の奥さんは、貴重品を取りに帰って亡くなったそうです。
そんな話聞いたり、逆に僕達の神戸淡路大震災の経験も聞いてもらって話が弾みました。
次に行った所は、山の中腹にあるお寺が避難所になっていました。
ここは35人の大所帯で、若い人達の元気な笑顔を見ることが出来ました。
みんな、秋田君の歌ではないですが「♪生き抜いてやる~!」というたくましさを感じました。
ここでも柔軟材は喜ばれました。









そのあと大きな漁港だったであろうところに差し掛かる。山側に大きなお寺の本堂の屋根が崩れたままになっている。

港の先端の方で男達がなにやら作業をして入るようだが、材木やトタン板やあらゆる生活用品が折り重なって放置されたままで、まだ手が着いていない。
あまりにも悲しい光景だ。











歌っている途中、自衛隊のジープが何台も通り過ぎていく。


小鳥は何もなかったように囀っている…
みんなの顔が浮かぶ…
まるでお唱えごとを言っているようで、ぼくにはもう歌っているのかどうか分からなくなった。










あまり長居はできないので、次の避難所を探す。
この漁港のすぐ上に、小さな民家で避難している人たちがいた。

足の悪い御婆さんが大きな避難所生活するのは無理なので4人ほどで暮らしているのだ。
やはり柔軟材は喜ばれた。
一通りの生活品は配給されているのだが、なかなか少し贅沢かな?と思われるものは要求しにくいし、行政や大きな組織のボランティアは手が回らないようなのだ。




陽気なおばあさんたちで写真をパチリ!




神戸がそうであったように、人々はこれからも逞しく元の生活を取戻す努力をしていくと思うが、今回の震災はそうは行かない。
原発の放射線のことを考えると気が重い…。



…いつまでもここを彷徨うな…
Oh hard times come again no more!